自分のジャズシンガーへの道のりを振り返る! [ジャズ]
生徒を教えていると色々考えさせられます。
で、自分の歌手への道のりを振り返ってみました。
興味あったら読んでね。^^
人前で歌い始めたのは、水島早苗ボーカル研究所で勉強中の大学3年生の頃でした。
ボーカル教室の先輩の紹介で、六本木のとあるピザハウスに毎月2回のペースで出演。
ギャラは、少なかったけどもちろん出てた。
先生には、「まだ仕事なんてだめだからね」と言われてたので、お店で歌ってることはずっと秘密でした。
衣装なんてどんなのを着ていいかもわからず、大学生だから服など買うお金もなく、母親のワンピースなどを着て歌ってたので野暮ったかったでしょうね〜。
大学卒業後、就職はせずジャズボーカルの道に足を踏み入れる。
これは、ボーカル研究所の仲間に影響されました。
ほとんどがプロとしてやってくと決めてましたので。
親の反対はあったけど、気持ちは揺るがず、家を出て独立する。
経済的にもう頼らないことが本当の独立だ!と思ったし、この頃両親との関係は最悪。
出て正解だったと思ってます。
昼間バイト、夜歌いに行く日々。
昼夜働き通しだったせいか、数ヶ月に一回のペースで高熱を出し倒れてました。
でも丈夫だったんでしょうね。
なんとか続けていくことができましたから。
20代は、ただ、ただがむしゃらでした。
今や信じてもらえないかもしれませんが、内向的、極度の人見知りの私。
そんな私が意を決して、友達のシンガーが出てるお店に行き、歌わせてもらったり、
紹介してもらえるお店があれば、一緒に行ってオーディションを受けたたり、、
更に、プロデューサー、オーナー、店長、ブッキングマネージャーに直接電話をし(この頃のツールは電話のみ)、やる気度満々をアピールし出演を請いたり。
負けたくなくて一生懸命。
この頃出演していた有名どころのお店は、新宿J、G7(高田馬場、新宿2店、渋谷、六本木全店)、新橋Swing、新宿カーニバル、などなど。
UCC主催『JAZZVOCAL in GINZA』のMC兼シンガーにも大抜擢されました。
20代は、とにかくなり振り構わず、でした。
そんな私をあまり快く思ってなかった人、いたかもしれません。
でもいいお店で歌いたかった。
若いからなり振り構わずができた。
振り返るとそう思います。
オーディションには、いつも通る訳ではありません。
得た仕事もエンターテイメント性がないと首になったり、何の前触れもなく突然出演数が減らされたり、そんな辛く悔しい思いもしました。
でも社長はじめ、皆さんには意外に可愛がって頂いたような気がします。
30代に入ると、引っ張りだこ。
有名老舗ジャズクラブ、有名ホテルなどに連日出演。
六本木Satin Doll、お茶の水NARU、代々木NARU、銀座Swing City、三田倶楽部、六本木Birdland、六本木Ballentine、帝国ホテル、ホテルニューオータニ、ホテルオークラ、プリンスホテル系統などなど、、。
'97にはジャズボーカル大賞新人賞も頂き、お店からの依頼、ミュージシャンからのお声も増え、超忙しい毎日。
有頂天〜〜。
天狗になって、プライドばかり高かったかもしれません。
しかし、、楽しいと感じて歌ってたかな〜〜?
まだ自分でミュージシャンを選ぶこともできず、お店の決めたメンバーには気の合わない人や愛想悪く恐い雰囲気の人もいて、暗い気持ちになって楽しくない、そんな時もありましたね〜。
今がず〜〜〜っと楽しい〜〜!!
そう思います。
また振り返って、色々検証してみたい(大袈裟ですが)と思います。
2018-06-05 14:34
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